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広島LC結成50周年の記念座談会を進めさせてもらいたいと思います。
最初に「50周年記念大会」についてですが、僕なりにテーマを持ってやらなければいけないと思っていたわけですが、やはり50周年という歴史は大変重いと思います。今この50年で過去の広島LCを振り返る。100年になると忘れられるかもしれません。50年だからこそ、まだそれが振り返られる。そういうことに大きな意義があると思いましたので、しつこくてもいいから、とにかく広島LCが広島県で初めて生まれたときのいきさつを、他クラブの方にも知っていただきたいという思いもあったものですから、今回の大会では、ああいう形を演出させていただきました。
そういうことを頭に置いていただきながら、これから「50周年記念大会」を振り返っていただきたいと思います。
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結成50周年の諸行事、クラブの者全員が力を合わせて行ったという感が非常に強いと思います。
20周年の時に、38名のチャーターメンバーのうち、生存在籍された方が18名というふうに聞いておりますが、そのときのガバナーは山口県の田村呈次という非常に眼光鋭い方でした。その人がお祝いの中で「広島LCは、シニアクラブとしての風格と誇りを、ポリシーとルールにのっとり、常に積極的に、他クラブの模範的行動を取ることを至上にしている」とおっしゃっております。30周年の時、チャーターメンバーが式典の時に4〜5人集まられた中に、50年の話が出ておりました。50年でお祝いができるのは「村田(正)さんだなあ」と一番若いチャーターメンバーの名前が出ておりました。「50年か。しかし、そのときまで広島LCがあるかなあ」という感慨もまたあり、「そのときまで、広島LCがますます奉仕の実をあげ、お祝いするようなことがあればいいなあ」というふうな言葉がでてきたのを聞いております。
このたびの50周年、本当にそういう点では、チャーターメンバーにも、大きな大きな期待と感慨があったのではないかというように、私は感じました。広島LCというのは、昔から言われるように、「平素はそれぞれ百人いれば百人百様だ。しかしながら、決まったことはそれに従う。そして一大事というときには、みんなが力を合わせてやる」というふうに聞かされておりました。そのことが如実に現れたのが、今回の結成50周年の大会であったというふうに思っております。
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私も本当に感動の50周年を終えさせていただきまして、会員であることの誇りをしみじみと持ちました。一期一会の一発の勝負で、大会がすべて成功するということはすばらしいことだし、本当に感激しました。生涯の私の喜びです。
特に私は、県東部の福山の方のクラブに7年ほど在籍して、1970年に広島にやってまいりました。仕事でどうしても広島に出て行くということで、爾来このクラブに在籍させていただいたわけです。私が転籍してきたときは17名のチャーターメンバーがいらっしゃって、本当に親しくいろいろとお話ししてくださいました。そういう中、勉強させていただいたことは、あらゆる意味で私の人生にとってかけがえのないものになったと思っております。
35歳のときにライオンズへ入りまして、43年たって今思いますと、本当にライオンズは人を作ったという気がします。私は、これからのライオンズというものはどんどん変わっていかなくてはいけないし、時代に対応したものになっていかなくてはいけないけれども、そのときそのときの心というものを大切に引き継いでいかなくては何にもならない。だから広島LCは、その心をひとつ大切にして、今後とも頑張っていくことが大切ではなかろうかという気がいたしております。
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過去何回かの周年行事に、いろいろな各先輩メンバーが努力して、それぞれ輝かしい歴史と伝統を築いたわけですけど、今回ほど、いろいろな条件的に難しいことを、非常にスムーズに事が運ばれたということは、過去に例をみないくらい立派な周年行事をすることができました。人々の努力の結集というのがいかに大切であるかということを、しみじみ感じたわけです。
「広島LCが、50年でどんなことをするのだろうか」というような関心を皆さんが持っていました。最後の言葉の評価は「さすがはやっぱり広島だなあ」という皆さんの声は、どこからもありました。それだけ広島LCの動きというものに対して、関心を持ってみているわけですね。会場全体の秩序にしましても、過去の大会を見ましても、私語をする人がいたり、大会運営の当事者にとっては失礼な事が多かったのが、このたびは微塵もみられなかった。「素晴らしい」という言葉の裏づけには、そういう小さな事の積み重ねが非常に大切だったのではないかと、しみじみ思いました。
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いろいろとエピソードもありまして、偶然から生まれて大会演出効果を上げたものがいくつかあるんです。
例えば、広響を呼ぼうと言ったときに、ライオンズと広響の関係を全然知らなかったんです。知らずにやりましたら、過去の記録でクラブから広響に助成金を出したりしている事が分かりました。そうすると真名志さんがあるとき「実は、広島LCに高橋(定)先生という方がいらして、それは広響の初代理事長で、亡くなられて、原田東岷先生が理事長になられた」とおっしゃった。それから調べてみましたら、広響の誕生のいきさつを書いたものに、高橋先生の事が全部書いてあって、しかも原田先生は15年も理事長をおやりになっている。それで、すぐ『広島LCと広響の関係』というチラシを作ったわけです。
もう一つ、例の血液の緊急搬送車、これを水戸川さんのご努力で寄付する事になった。これも偶然ですが、最初広島LCがアクティビティーで献血をしたのが、30年前の10月8日のライオンズデーです。それからちょうど今年で30年。そういう要素もあって「50周年らしいイベントになったなぁ」と私一人で喜んでいたところなんです。
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高橋先生はお医者さんであっても、クラブでの肩書きは広響の理事長になっているわけですよね。発足当時は広響もずいぶん手元不如意で、何をする事もできないわけですよね。だから高橋さんも、「これじゃいかんわ」と言って、「ライオンズクラブで何がしかの不足の物を補ってもらえんかしらん」という要望がありましたから。それまでは、「ライオンズクラブというのは寄付団体ではないんだ」という意識が非常に強かったから。そういうような、広響を今から立派に育てる一つのつながりというものを、もっと皆さんに知っていただきたいというような事も、確かにあるんです。だから久保さんに、ちょっと余分な事かも分からんが、つい話をしたんです。
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言われたから、広響の事務所へ行ったんです。そしたら記録があるわけですよ。高橋理事長が亡くなられたときに、「急逝のため、広響は危機的状況に陥った」と書いてあった。だから困られたんでしょうね。それで原田先生が、ああいう人ですから引き受けられたんでしょうね。
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たまたま50周年の前に原田東岷先生の本を読んでいましたら、高橋さんがうちのクラブにおられて理事長を4年やっておられて、4年目に診療中にことっと亡くなられて、それで原田先生が非常に困って「跡を俺が引き継いだ」というのが書いてあるわけですね。
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おまけではありませんが、その途中で桜内(乾雄)さんが会長になられて、3年間は、桜内会長、原田理事長のコンビでおやりになっているんですね。広島LCは、少しオーバーに言えば、非常に難しい時期に広響を支えたという事も言えないこともないかもしれません。桜内さん個人の力かもしれませんけど、ライオンズが関わったという事は間違いないです。
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桜内さんとは何回かお会いして、車に乗せてもらった事もあるんですが、やはり激しい一面、すごく人間の苦労をしておられる方ですから。そういうものをしみじみ感じます。
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私が入会してちょうど33年になると思いますが、過去に現職の会長でなくなられたときに幹事をしたのは私だけだと思います。沢崎(嘉衛)さんですね。
それと、私は25周年の時に事務局をお世話させて頂いた事があるんですが、大会委員長が関根(龍雄)さんで、大会会長が松枝(豊太)さんでした。そのときには
1年前から大会委員長の関根さんの家に寄っていろんな会合をしました。部会長を担当された方は、ほとんど会長経験のある方ばかりでした。原田先生はハワイとか、いろいろな向こうのライオンズの話をされた。みんな集まられて、10周年・15周年の経験等を踏まえて、非常にスイスイと新しい案が出ました。そういう担当をさせていただいた関係上、このたびの50周年での皆さんの苦労がしみじみと分かる。それとその歴史が、何重にも重なって、よくあれだけの事をされたということを感謝し、大変だったと思います。
それと私は、昭和60年だったと思いますが、いよいよ7月から会長というのに、6月に心臓発作で。原田東岷先生に「もう会長を辞め」と。それで、第二副会長の中野さんに大変ご迷惑をかけ、その次の大井さんにも大変ご迷惑をかけましたことに改めてお詫び致します。
ライオンズに入って良かったと思うのは、お医者さんもおられたし、有資格者の人、弁護士とかいろんな人もおられるし、また、大企業のトップの方にいろいろ教えていただいたこと、学んだことが非常に良かったと思います。
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さっき、次の50年に向けてやろうと言ったけど、やはりこれも5年刻みでやっている事の積み重ねですよ。私は30年のときに入ったんですけど。30年は非常にお粗末だった。よそのクラブのためにやっている。今度の事は、我々のクラブのためにやっていながら、よそから来た人もちゃんと受け入れているし、非常に良くやった。どうしてやったかと言うと、これは若い人が全部やっておりますね。非常にいい参考になった。
次は55周年だし、60周年だし、あるいは65周年。この積み重ねで100周年がうまくいく。今のメンバーは100周年の時にはいないのですから。次の5年へ向けていくというようなことで、今様にあまりなんだかんだとお金をかけないような事をやっていく、その代り、かけるときにはバアっとかける。やはり実のある事にはバアっと出せばいいんです。つまらん事には出さない。そういったことで、今回の分は素晴らしい会であったと思います。これがのちのちに残していくんではないか、他のクラブにも影響するんではないか、というような気がします。悪い事は悪いと反省しなければいけないけれど、良い事は誇らしくいってもいいんじゃないかと思います。
次の5周年に向けてがんばろうと思います。
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このたびの50周年は偶然な事がいろいろあったと久保さんが言われましたけれど、偶然もあったかもしれませんが、本当に垢抜けしたスマートな大会であったと、自分もクラブの会員でありながら、そう思いました。実に理路整然としていて、新しく入会なさった方も、「自分たちの在籍している広島クラブが、50周年という大きな節目なんだな」というふうな事を感じて、精一杯協力し、全力投球で自分の職責をまっとうされた結果が、お客さんにも感動を与え、我々も実感的に感じ取るわけであります。
私も振り返ってみますと、40周年の大会のときも、資料を見ると司会進行をさせていただいたという記録もございますけれども、あれから10年、大きな節目とはいいながら、「素晴らしい会であったなぁ」と思います。
今、八木さんから、55年、60年というふうな引継ぎ手の会というような話もありましたが、60周年の、人間で言えば『還暦』という一つの大きな節目を一つのターゲットにやられれば、まだ今日参加の我々も、もう10年は生きておられると思いますので、より精進し研鑽を積んでいけば、素晴らしい名跡が広島地区として残るのではないかと思います。
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では、村上さんには例の講演会の大林先生が甥になるという事で、その事を中心に振り返っていただくということで。今日、水戸川(旭)さんはいらっしゃらないんですが、本当にあの動員、あれだけの人数(約1,450人)が揃ったというのは、本当にすごい事だと思ってね。
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そういう意味では、あの日まで私自身ストレスを感じていました。2階が3分の2、大方4割くらい埋まっていましたか。そういうような事で本人も喜んでいました。それだけど、私自身が「500〜600人かな。甥に悪い事をしたな。恥かかしたな。」というような事が、もしあったらと思って、かなり痩せましたけど。
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一番心配されていたのは池内(浩一)さんです。大変な責任感をもっておられたですね。
入り口で整理券を数えていたでしょう。あのときに、どなたかが、「アッいま、900人になったぞ」とか、「もう1000人だ」と、あの何というか盛り上がりというのは凄かったですよ。1000枚を超えると、みんなの顔が変わりましたね。それで、しばらくすると1階の会場係が「もう1階がいっぱいだ!」という。それで2階でないとだめだという事で、今度は受付の後ろの階段から誘導しようと言ってやったときに、「あーこれは成功だ」と思いました。 |
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あれだけの人数が集まったという事で、大林そのものも喜んでおりました。それで、あれも乗ってから、ステップがあったら、おそらく下に下りただろうと思います。ものすごく乗ってからしゃべっていましたけど。 |
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オーケストラと同じように、一人がタクトを振って、それぞれの方がそれぞれの担当業務で動員をかけられたというのが、組織力というものですね。我々がまだ聞いていない部分があるでしょうが、野村(真幸)さんあたりは、水戸川さんと学校関係をずいぶん回っておられるんですね。本当にいろいろなところへ、そういう地道な努力というものが、やはり集客に結びつくというのがすごい事ですね。
では、次のテーマへ。草創期のエピソードですが、実は私、この本(「 ウィ・サーブ〜日本ライオンズ半世紀の航跡」) をライオン誌から買ったんですよ。ざっと流し読みしたのですが、歴史でずいぶん広島の事が書いてあるんですね。
まず、クラブが出来た1955年6月には「広島LCの原田東岷ライオンが、日本人会員としては初めての国際大会へ参加」。
それから間接的ですけど、1958年4月の岡山の第4回年次大会で、日本オリジナルのライオンズクラブの歌を作ろうと決議案が出されて、当時は呉LCの阿部幸次さんが歌詞選考委員長になったんだそうです。「ライオンズクラブの歌」は、阿部幸次さんの人脈を生かして、藤浦洸さんに作詞、古関裕而さんに作曲を依頼してできた。その後、阿部さんは広島LCに移られて、会長をおやりになった。
それから、1959年京都での第5回年次大会で、日本302地区が初めてWとE、西と東に分かれました。翌年W(ウエスト)地区の年次大会が広島で行われ、ホストクラブは広島が中心となるんですけど。ここで日本初のパレードが行われた。当時、市内でパレードするのはメーデーくらいで、こういう民間のイベントというのはなかったのだと思います。その後の1969年の日本の国際大会で、壮大なパレードがなされたのは、実は広島のこの大会がベースになっているんです。
それからもう一つ。『ライオンズ平和の森』に、日本初の故村上薫国際会長の「ピープル・アット・ピース=みんなで築こう和の社会」というスローガンを掲げられて、その文字の入った青銅の碑を広島市につくった。
あるいは10年史を読んでいたら、アテンダント・コンテスト、出席率の世界コンテストが当時あったんですね。それで、広島LCが世界2位になって、当時で80ドル、2万7千円を現金で頂いた。アテンダント、この100%は、年間を通じてですよ。もちろん純例会ではないんですが。メーキャップしてですね。この苦労話は、当時の役員さんが、松山に出張へ行った人が一泊したいというのを、最終便の船で帰広するように電話して、9時過ぎまで委員会を延長して、港まで車で出迎え強引に帰らせて、メークさせて100%になった。そういう事をしながら、例会欠席した連中には、必ず電話で「メーク行きなさい、メーク行きなさい」という事をしながら、100%例会を実行されて、世界でも2位になった。すごい事をおやりになった。
他にもあるんですが、そのあたりで、もし皆さんが草創期でお聞きになったようなエピソードとか、「さすが広島LCの誇りだな」とか自慢話があったら、おっしゃっていただきたいと思います。
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確かに、東岷さんはいつも、「俺は国際大会に初めて日本人として出て行ったんだ。そのとき、これを着て行ったんだよ」と言って、私が時々着ております『広島LC』と背にあるチョッキ。そしたらみんなが声を掛けてくれて、「おー、日本の広島か」と言って握手してくれた。「そういう感動が忘れられない」という事を、何回も聞きました。やっぱりああいうものを背にしておりますと、「これは広島クラブだ」というものがあるので、デモンストレーションのためだけではなくて、自分に言い聞かせるためにも、復活してもいいのではないかと思います。みんなが帽子は着んでもいいけど、何かの時には揃いで。昔は私らブレザーを皆持っていましたからね。ブレザーはもうないんですが、それはそれでいいんですが、ああいう物でも持っとけばね。揃ったときにはパッと着るというふうになると、一つの格好にはなるんですけどね。
いずれにしても「素晴らしい時代だった」と言ったのじゃいけんので、これからもそういう事を勉強しながら、良いところはいつまでも続かせ、そして新たなる復活をしていかないと、確かに50周年は立派に出来たけれども、しかし出席率も今言われておるように悪くなってきている。広島LCは100%は出来ていませんよね。私はそういう事もやって行かなきゃと思います。 |
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例会に出席するという事についても意識もだいぶ違いますよ。 |
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今頃は50%台なんかの時もある。情けないよね。 |
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70%を切っている事がほとんど。これはまた後ほど出てくると思いますが、元へ戻って、昔のエピソードで何か。 |
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クラブが結成されたときの思い出話で、原田先生と話をしたときにね。国際本部から来る書類がみな英語で来るんだそうですよ。そうすると、ライオンズの専門用語が辞書を引いてもどこにも書いてないものだから、当初は苦労したというようなことを。フィリピンも英語でしょう。日本にも同じ英語で国際本部から連絡が来るのが、すでに東京なんかはそれをこなすだけの力があったかどうか知らんが、広島は始めてのライオンズクラブの結成で、内容的な物もあまり皆さんご存じなかったし。ずいぶん苦労したと原田先生が言われていたですね。
それと、さっきの『ライオンズクラブの歌』の分はね、阿部幸次の。それまでは『ライオンズ・ヒム』を歌ってたわけよね。古関裕而と阿部幸次は音楽学校が同期らしかった。この『ライオンズクラブの歌』を作ろうと言ってやったんだが、「どこが気に入らんで歌を変えなきゃいかんかったの」と尋ねた事がある。ライオンズヒムの3節に、「戦の魔手より」「命と名誉と富かけて」とある、これは日本の平和的なライオンズクラブにとっては決してよい文句ではない。これは何とか変えなきゃいけないという事で、『ライオンズクラブの歌』を作ったんだと、阿部さんが言われていた。 |
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それは書いてありませんでした。日本産をつくろうという事しか。 |
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3番目の歌詞がどうも日本の国情に合ってないような事で。 |
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西本さん、そういう昔のエピソードを何か。 |
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私が入会した時には会員が106名で出席率が非常に良かったですよ。というのは、出席率に厳しく、それが一番のライオンズのあれだという根底があった。最近行って見て、少ないときには40何名とか、会員も減ったですが、それにはちょっと驚いて、どういう原因でライオンズがという意識がね。私も出席率が悪いので人の事は言えないのですが。 |
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大井さん、さっき村田(正)さんが50年を迎えるうんぬんと言われたのは30周年のとき言われたの? |
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そうそう30周年のときにね。あの人は大正3年生まれだからね、今でもまだ明治の人がいるんだから。 |
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村田さんは平成元年の1月に亡くなっている。ちょうど流田さんのお父さん(流田哲将)が会長の時期に亡くなった。私が村田さんと思い出があるのは、入会してそう長くはなかったが、子ども科学賞の表彰式に、緑井の梅林の小学校かどこかに行くときに、村田さんのお供をしたのを、記録に書いてあるわけ。車に乗って「おい、田村君、会員増強、会員増強と言うけども、やみくもに会員増強してもどうもならん。昔は広島銀行から、マツダから、中電からどっからもそういう会員さんがおるのに、今頃はだいぶん質が落ちた」「やあ、すいません。私のようなものが会員になって」「いや、そういう意味で言うんじゃないんだが。」
確かに昔は、広島LCのメンバーというのは、本当に最高のクラブだったんだろうけれども、という事が記憶にあります。 |
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東岷さんが一中の先輩なんですよ。昭和28年から29年にかけて野球のマネージャーをしてて金を集めていたわけ。当時、東岷さんがポンと五千円下さった。ひょっと見たら、平和公園に帽子をかぶっておられた。「この間はありがとうございました」と言ったら、「おっ、今度こういうクラブを作った。お前も大きくなったら入れよ」と言われて、まさかそれから30年たって入るとは思わなかった。「ウォーウォーウォー」といって歩いているわけよ、平和公園で。帽子をかぶって、キンキラキンのあれで。平和公園であるのを、高等学校3年のときに、私が見ているわけよ。 |
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田村さんの話の中で、村田(正)さんが会員の事で言われたように、桜内(乾雄)さんも言われたのを聞いておる。「会員をそんなにどんどんどんどん入れるなや。今の会員増強としたら難しい事なんだけど、わしが良いのを連れてくるよ」と言われた。しかし、それから後、桜内さんは一人も新入会員を入れられた事はなかった。「誰でも彼でも入れるな。たとえ会員が30人になってもいいじゃないか」という言葉を私は聞いておるんだけど、難しい事よね。やっぱり会員は数がいなけりゃ。 |
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30周年の前に会員増強があったらしいけど、当時の幹事の内田(民之)さんが推薦すると言われた。「私が推薦したら入れると思うが、もし駄目だったら、こらえてくれえよ。」資格審査があると言って、だいぶ脅されたよ。 |
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桜内さんも同じ事を言われて、非常に厳しかったけど、晩年好々爺になられた。国際理事になられた梅原亨さん(1978-80 国際理事、徳山LC)。去年亡くなられましたが、晩年に直接聞いたことがあります。「クラブの中にも『会員を増やせ』という人と、『要するに会員は人数ばかり多くなくてもいいじゃないか。立派な人に入ってもらおう』というような2つがあって、会員は増えないんだ。」と。しかしながら、思いはいろいろあろうけど、やっぱりある程度の人数がいないと、これはどうにもならない。 |
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会員が減ってくると、やはりパワーが足りませんね。本当、パワーがなくなるね。 |
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広島LCはね、ここにも元ガバナーが2人おられるが、歴代5人もキャビネットのお世話をするのは大変だと思う。私は手伝いはしていないけど、ときどき事務所へも行っていましたがね。原田東岷さんがガバナーのとき、キャビネット幹事 久保(清人)さんが、毎日出席率を書いて、出席しなかったら、やかましかったというもんじゃないよ。私はその時にはそういう役じゃなかったが、大井さんらがお世話しよった。 |
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私と真名志さんらが副幹事をしてたとき。あの人がキャビネット幹事でね。ボロクソ言われた。 |
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毎日来たら、出勤簿じゃないが判をつかされた。中野さんはずいぶんこっぴどくやられたが、私には何も言わなかった。 |
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この人には同じ事を言わない。大井さんにもあまり言わない。だけど私にはガンガンガンガン言う。言いやすいんだろうな。ひょうひょうとして面白い人だった。 |
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久保(清人)さんで思うのがね、例会場を変わらなきゃいけなくなったとき、久保さんは「寺でしてもいいんじゃないか。我々は奉仕団体だ。握り飯で寺で費用をかけないように。」出張でも、旅行でも、あのころはグリーン車だったが、「グリーン車に乗らずにこういう普通で行きました。それでサンクス出しますとか、そういうふうなやり方が本当の奉仕じゃないか」と。だから例会場も寺で握り飯で昼の例会をしたらどうかと意見を出されたけど、やっぱり賛成がなかった。しかしそうなったら、クラブというのは衰退しますよ、自然に。下駄を履いていって、握り飯を食うてね。 |
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それと中電の桜内(乾雄)さん。亡くなられて、そのときに私は幹事かなんかしとって、葬儀に行ってきたんですが。桜内さんは別格の人だったね。 |
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千差万別でみな性格が違うけど、それのバランスというのが素晴らしかったと僕は思う。大将ばかりが寄ってやるのじゃなくて、バイプレーヤーの人がたくさんおられた。村井さんらにしてもみなそうですけどね。そういう人とがんがんやろうという考え方は頭からないけども、素晴らしい人柄でひょうひょうとやられると、強い人がみな譲るんですよね。そんなのを見て「やっぱり違うな」という気を私は持った。うちのクラブというのは、素晴らしい性格の人が寄り集まっているな、と。 |
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20周年のときも、25周年のときも、チャーターメンバーの奥さん方から聞いたのだけど、「うちの主人は大会をやるのに、毎晩毎晩夜中にならんと帰ってこない」、そのぐらい世話する人は、この50周年も同じような事だけど、するときはみな熱心にやられたよね。 |
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私は細田(正造)さんのときに幹事をしたんですけども、細田さんでも本当に、か細いような人なんだけど、しかしいわゆる島根県人ですが、素晴らしいずうずうしいくらいの度胸を持っていましたね。「シンガポールに行って姉妹提携を増やそう」と言って、私らもシンガポールへ行きましたよ。結果的には村上国際会長の「やめとけ」の一声で。結果的にやらなかったのですけど、そういう思い出というのは、本当に行動力で行ったんですよ。 |
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それに関連して、いわゆる姉妹提携の交流というのは、そうも最近はあまりうちのクラブは積極的ではなかった気がするんですよ。 |
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本当にそういう意味では、うちの50周年で、ハワイから会長を始めとして7人も来られて。北広島でも本当に感動してきたと思うんですね。 |
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北広島は、北広島町が北広島市の市制初行のときに、ちょうど会長のときでご招待いただいて、原田(東岷)先生、(北広島LCの)藤川さん、高畠先生とかいろいろお世話になったけどね。 |
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北広島の場合は、中野さんが会長のときに歌詞の碑を作られたりして、素晴らしい合同アクティビティーをしているわけですから、それを粗末にしてはいけないと思いますね。
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私にしたら、北の大地にあれだけのものがあるという事は、本当に、流田さんのお父さん(流田哲将)がすごいやられたんですよね。 |
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流田さんのお父さんが橋渡しをし、また本当に力になってもらった。 |
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ホノルルLCは来年が80周年という事なんで、私は元気だったら行こうと思う。 |
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だから、平素の交流も必要だ。それというのが、10年たって行ったら、ハワイでもメンバーがゴロっと変わっている。上野さんがチャーターメンバーだが、あれが居られたころはまだ日系の人もいたし、メンバーもある程度いた。それから亡くなられてから行ってみると、メンバーがゴロっと変わるね。だからやはり、事あるごとに、そういう機をとらえて訪問する事が大切だね。 |
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本当に一期一会。私は、真名志さんとサイゴンへよう行かなかったのが残念なんだが。その時になんで行かなかったのかという気がする。やっぱり行けるときは行かなきゃいかん。何が起きてもおかしくない時代だからね。 |
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でもあのときは、いつサイゴンが陥落するんかなぁというような時だったからね。ちょうど昭和50年の2月の20何日。「もうそんな危ないところへは行くな」という皆さんの話だったからね。こんなに戦災孤児でみな困っているのに、ただ見逃して傍観しているわけにはいかんから一緒に行こうと言って。原田先生と一緒に行ったよね。4月にはもうサイゴンが陥落したからね。キャセイ航空の「南のパラダイス 安全だから是非」という宣伝文句につられていったわけじゃないが。飛行機が香港に着くでしょ。そこからサイゴンに行く飛行機に乗り換えるわけ。香港までは満杯。香港で乗り換えたら、誰も飛行機に乗ってない。「おいおい、大変じゃなこれは」と言ってね。
ずいぶん孤児の人にお金やら、品物を持っていきました。でもやっぱりそうだなぁ、と後から思うのに、ああいう国が滅びるときは、品物を検査しても、欲しいものがあったらみな取るからね。おおぉ・・・というような具合。そうでなかったら通さない。だから、こうやって指の間にお金を挟んで、握手している間にチョっと。そうしたらほとんどフリーパスで通れるくらい政情は非常に不安定だった。難民のキャンプへ訪ねて行っても、もう夕方になったら「あなたら、早く帰りなさい、帰りなさい」と言われて、「せっかく来たんだからもう少し」と言うと、「もう危ないから、早く帰りなさい」。そういう状況のときに行った。 |
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私は思う。久保さんがさっきも言ったけど、オーケストラのコンダクターだったんだと思うんだけど。そういう役割を、今回の50周年でも、池内(浩一)さんも、水戸川(旭)さんも、みんな本当にその役割に徹して一生懸命やられた。じゃあ原田東岷さんのときはどうなのか。潮村(浪雄)さんのころはどうなのか。それは八木(進)さんもおられたし、石原のお父さん(石原寛)だって。すべてが、そういうスタッフが凄い人がおられて。
今回は表へ出られなかったが、福馬(正三)さんというのは素晴らしい裏方で、原田東岷先生の時の地区大会を含めて、この人は「何歩歩いて何歩どうこう」という事を言われて。久保(行夫)さんはまだバッといける方ですが、福馬さんは実際測って秒で読むような人でしたから。とにかくそういう事が続いてきてるんです。次回もそういうものを見てきた誰かが、そういう役割をやってくれるんだろうけどね。これは本当に素晴らしいと私は思うんだよね。 |
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本当だな。時代、時代で、本当に支えた人が素晴らしかった、みなね。心配せんでも、その時々でちゃんとした素晴らしい人が現れますよ。 |
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話題を変えまして、51年から次の100年に向かうわけですが、広島LCのいわゆるアクティビティー、現在の我々がやっている奉仕活動を含めて「この辺がまだ足らない」「考え方をこうしたらどうか」というのがもしありましたら、ぜひおっしゃっていただきたいと思うのですが。 |
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アクティビティーというのは、その年の会長を含めて考えられてやっていく事であって、良いものは継続という事でやるのですが。私たちも地区の指導に当たって一番申し上げた事は、やはり時代が変わってきているし、それに対応できるアクティビティーを考えていかないと。継続だけでワンパターンでいくという事の中では見直しが大いに必要だと。したがって、継続アクティビティーについては絶対見直しをしようという事を申し上げてきたんです。私はそうしないといけないと思います。 |
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それは僕もそうだと思うんですが、僕も会長を経験していて、例えばそれをやろうとしても、自分が7月から(会長に)なっていくと、もう見直し考証の時間が無い。やろうとすれば、次期執行部が内定する2月頃から、時間をかけて、三役クラスでやっておかないとなかなか実行出来ないですね。 |
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そりゃあね、何十年も続いてきたら「俺のときでストップする」と言っても、「そりゃ何でやめるんだ」と言われたら、「まあ続けとけばいいわ」となってしまうんですよ。だから、やはりそれについては、クラブ自体がみんなで相談して英断しないと。「今期は無理でも来期からそうしよう」と、長期ビジョンの中で物を見ていかないと改定ができないでしょう。 |
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ストップをかけるわけにはいかんでしょ。 |
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止めるという意見は出てないけど、そういういろいろな見直しをする時期に来ているという事です。 |
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今のアクティビティーをどうするという議論を提起している訳じゃないんですけど。今ある既存の継続アクティビティーを一回振り返って見る、その効果と必要性を検証する。私は3年周期に見直しをすることを考えたらよいと思う。 |
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私はもう30何年ライオンズに入って、色々な施設にずいぶん行ったですね。真名志さんが委員長されて、恵まれない子どもとか、障害のある子どもとか。ある時には車椅子に乗せて市内を。今はトイレとか変わってきてますが、あの頃はトイレが完備してないですから。身体障害者にとっては、車椅子だったら、前日から水を飲まずに、トイレの迷惑を掛けるものですから。
あるいは今はもうやっておりませんが、元似島の戦災孤児、キャンプやったり。そういう交流をしているといろんな心境になるがね。
今は社会状況も変わったし、施設も今のようになったし、全然感覚が違いますけど。 |
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労件がすごい減った。労件は、やっぱり増やさなきゃいかんね。 |
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公園の施設にペンキを塗りに行くのに、真名志さんが車で持っていかれた事がありますが。中に入って塗ってペンキだらけになって。それでもやっぱり奉仕でね。あそこを通ると「ここを、みんなでやったんだな」という事がありますよね。あの頃はまたそういう事が多かったと思いますね。 |
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それはね、職人を呼んできて塗らした方が、早くて上手で安く出来る。でも、ただ金の問題だけではない。そういう事をした、みんなでしたという事が、やはり思い出に残り、またそういう事を継いで、いろいろとまたほかの事をやろうかという事になる。
継続事業の話もでたけど、良い事は続けてやるのがいいんじゃないかということもあるけど、やはり、すべての継続事業を見直していくことが必要じゃないかと思う。 |
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私らも学校関係の中に足を突っ込んでいるが、教育の本質はどんどん変わっていきますよ。一時期は「ゆとりの教育」でも、ぐっとまた方向転換で。教育の焦点というのは世界単位で変わってきますから。だから、時代の流れの変化というのが、決して変わることだけが良いわけではないし、変えてはならない事も中にはあるわけよね。そうした端的なものの見方をすると、時代の移り変わりの激しさで、どんどんそういうような・・・奉仕でもやはりそうだと思うんです。かつては世間の評判が非常に良い奉仕も、時代が変わると役立たずの無意味の奉仕じゃないんかというような時代になってきますからね。ものの見方というものは余程よく考えてやった方がいいんじゃないかしらと思いますね。 |
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じゃあ、少しテーマを変えます。出席率向上という「古くて新しい」「新しくて古い」テーマです。これについて何かご意見がありませんか。 |
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私もちょっとこの間から休んだんですが。休んでも「何で休んだんか」とか「出て来い」とか無いですよね。昔はちょっと休んだら即言いよった。休んで出てこない時には、スポンサーが何か言うとか、委員会が何か言うなりして。 |
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「何で来ないか」という連絡が昔は良くあった。恐ろしかった。 |
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一回休むと、出るのが億劫になるから出んようになる。 |
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それは電話を掛けんのが悪いんか、全然出んのが悪いんか。どっちが悪いか分からんが。 |
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前は誘いの電話が掛かったよね。私も掛けた覚えがある。 |
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私が1979年に入会して、ピーピーでこういう立派な会に入って、ちょっとビビッとったわけです。あの時は亡くなられた11代会長の阿部幸次さん、あれは恐ろしかった、睨み付けられたら足が震えるくらい。あと松枝のお父さん(松枝豊太)、ああいう怖い方がずいぶんおられた。今はそういう意味で非常になごやかで、良いとは思うんだけど。その頃に無断欠席を3回続けたら「これっ」というくらい厳しかった。3回休むまでには「何で来んのかね」と電話がかかってきた。
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八木さん、あなたの話じゃないんけど、例会の2〜3回でも欠席があれば、何か声を掛けて云々というのは、確かに10〜15年前は、それが当たり前のつもりでいたが。世代の推移でしょうね。 |
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人間出ようと思ったら出られるのが、ほとんどなんだよ。御調のクラブでハガキを持って戻ったんだが、あれはどこへ行ったのか。赤いハガキ、召集令状が。あれはすごいと思う。真っ赤な召集令状で欠席した会員に出す。赤いハガキが来たらみんな何が来たかと思ってたじろぐ。差押状かなと思う。 |
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それはアイデアですね。 |
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「あなたは例会に欠席しておりますが、どういう理由ですか。とにかく、次は必ず出てくるようにお願いします。」と書いてある。今頃の若い人は召集令状も知らんから、どうにもならんけど。やはりああいう物を見たら「う〜ん」と思うわな。なんか目先を変えても、出席委員会が、熱心にそういう事を事務局としてやっていかなくてはいけんのじゃないか。 |
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どう考えても、そういうふうな担当の委員長になられた人は「ああせえ、こうせえ」と言う前に、自分なりに委員長として責任を全うしようと思えば、ギャグやジョークやウィットを駆使してなんとかやろうと努力をせんと、何も動きをせんようでは、自然増加とか出席率は良くはなりませんよ。やっぱり自覚を持って、それぞれ1年に1回の責任だから、フルに動いてもらえば、何ぼか答えは出るでしょう。自覚を促さないと。 |
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まあ出席はちょっとやかましく言おう。入るときに宣誓をするんだからね。「定められた例会には必ず出席をします」と言うんだから。 |
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それを言わないと、最近入った者は、我々は15人か20人ならツーカーで分かった人間だが、ずいぶん名前と顔が一致していない人が増えてるでしょ、あなた方みんな。だから、こういう事を、我々実績のある程度古い人間が、やっぱり言わなきゃいかん。黙って見過ごしたんじゃぁだんだん地盤沈下しますよ。 |
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ぜひこれは実行してもらいたいね。やっぱり、どんどん例会に出てこなきゃあ。5割になるような話じゃあ情けないよ。 |
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それでは最後にですね、これから新しい50年に向けてスタートしたんですが、「広島LCはこうあるべき」という意見がありましたら。 |
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20周年の時に、桜内(乾雄)さんが「これからのライオンズをどうするか」という事で意見を述べておられるんですが、「新しい構想で、活力のあるライオニズムを高揚していかなければならない」というふうに書いてある。そのためにも若いライオンに大いに期待するという事なんです。
桜内さんは「終わりを慎むこと初めのごとし、初心忘れるべからず」と言っておられますけど、その通りだと思う。20年のときもそうだった、30年のときもやはり同じようなことではないか。50年でもやはり「若い人に期待する。次の100年にこうこうこうだ」というようなことで非常に具体的にという事になると難しい。それは、今出たように、50年を機に、「今までの事を、やはり切るべきときは切り、進むべきところは進む」という事をやっていかなくてはならない、まあそういうふうに考えます。 |
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みんな生き方はいろいろあるんですけど、しかし広島LCという一つの名前のもとで、みんながこうして同じ方向へ向いて物をやっていく事は、また自分の業界だけでなく他業種の中で、利益というものを除外して、お互いが心を開いて出来るというものは、他にはないと思うんですね。やっぱりこういうものは、より純粋な気持ちをもって、これから育って行く事をしていかないと、やっぱりダメなんじゃないかなと。
そのためには内部改革もやっていかなきゃいかんと思います。これから地区費を含めてそういう経費を安くして、ライオンズに入ってもそう負担にならんという感じのものに、出来たらしていくべきだと。アメリカなんかはそういう事が前提になってますから。
奉仕活動については、これからバラエティがどんどん広がって行くだろうし、方向が変わっていくかも分かりませんが、やっぱり時代に対応したありかたでやっていく事を考えなくてはいけない。それには、先ほど仰ったように、会員の増強という事、30人、50人、100人でやるものではパワーが違うと思うんですね。そういう意味では会員増強というものはやっていかなくてはいけない。 |
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やはり、皆さんの言われる本筋というものは、今のライオンの火は、皆さんの力によって、より明るく、より立派に輝くようにやりたいとは思っていても、現実の時代の変化というものは、あまりにも目まぐるしく変わっていきますから。かつてはそれが良い事であっても、今思えばまた時代から取り残されたような奉仕活動という事もありますし。もっと時代感覚、変化に対応するような運営、あるいは方法についても、皆さんの力を借りて、「ああ、立派な、さすがは」というライオンズの伝統を、より長く続けて行きたいと思っております。 |
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一つ言うのを忘れました。これは我がクラブにとって非常に悪い傾向だと思うんですが。役員に任命されたら進んでそれを受けようという考え方に、今後はみんながそういう意識を持っていただきたい。特に若い人は。私も会長を受けるときは「俺なんかがいいのかな」という気持ちがありました。でも、「よし、それなら一生懸命勉強して、至らんまでも、ふさわしいようにしよう」と思い、けじめもつけました。とにかく、もしもそういう名前が出たときに、恥ずかしくないように、名前を汚さないようにという気持ちだけは常に持っておった。ライオンズへ入っても、田村さんもおられたけど、昭和会を作ったりして、みんなで勉強会をしようと、精進していこうという事もやってきたし。そういう事をしてきたのが、なんか最近は、辞退というのが当たり前のようになってしまって。今後は「進んで俺が受けてやる。やらせてもらう」という考え方に戻してもらわないと、いけないんじゃないかなと思う。 |
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世代もずいぶん変わったと思うんですが、やっぱり企業とライオンは同じですが、前から比べて魅力が少ないんじゃないかと思う。私らの時には明治二桁の人がずいぶん居られて、行って怖いなと思う事がありました。今はそういう事はないんじゃないか。「会費も同じように払っているのに、何を言うんか、古いのが」という感じ。こっちもビビるのか、能力がないんか、そういうふうに反省している。
次の会長になられる下河内さんらはまだ若いし、ああいう人がウワっとやる。また素晴らしいものが出来るのではないかと期待しております。 |
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とにかく、略すべき事は略して、新しく作る事は作る。みんなが参加しやすい事を一つの前提として、古い人も出て来られる、新しい人も出て来られる、その参加しやすい会、参加しやすいような例会にしたら良いんではないかと思うんです。新しい人が見てみたら「なんかこれはおかしいな」という事があると思うんですよ。古い人は「当たり前だ」とおもっていてもね。そういった事をいろいろ変えてみて、新しい事を見つけるような事を考えてみられたらどうかなと思います。 |
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そうですね。委員会がそれぞれ7つあるわけですから、それぞれその年に就任された委員長さんが、原点に返ったようなつもりでやらないと。また、その委員長だけに任せずにみんな「自分のクラブを再生するんだ」というようなつもりで、我々50周年の大きな節目に精一杯、若い人も含めて協力もし、支えてもらったわけですから、次の何年かに向かってというふうな事を、みんなが自覚する。おもしろおかしい例会になる。夢も希望もないような、只座って時間をすごして帰っていくというような、そういうふうなクラブでは、どうもならんと思う。お互いが自覚して、事あるごとに啓蒙運動をやっていかなくては。せっかくの50周年で盛り上がったクラブが尻すぼみになったのでは申し訳ない。がんばっていかなくてはいけないと思います。 |
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この50周年の記念大会、あれだけ立派なものが出来たという事は、年齢的に中堅の方、若手の方、全部一致団結すれば、これだけのものができるんだという事で。51年といういう事で、新しい第一歩を踏み出していかなくてはいかんと思います。 |
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ありがとうございました。
まとめになるかどうかわかりませんが。僕はこの50周年大会が終わってみて、これは良かったんじゃないかなと思うのは、式典で、映像でライオンズクラブの歴史を視覚で訴えて、それからまた祝宴では、「産みの親」のお三方のご子孫に出ていただいて。そうすると最近入会された方も含めて、広島LCが、この広島県336-C地区の最初のライオンズの種を蒔いたという事が、あれで恐らく皆さんご納得いただけたと思います。そういう事をまず誇りに思ってもらえたんではないか、この誇りは外にという意味ではなくて、これからの心の奥の中で刻んでいただいたと思います。
先ほどから、いろいろご意見が出ておりますが、祝宴・式典で「ああ、広島LCはさすが」で終わるのではなくて、今度はクラブの活動の原点である例会だとか、アクティビティーだとか、そういうものに何か一つでも良いから、「これはさすが広島さんらしいな」という工夫を、毎年一つくらい執行部が考えて、その積み重ねがひょっとしたらブラッシュアップ、レベルアップになるかもしれないと思います。
クラブにとっては50周年というのは大きな意義があったと思っていますし、会員のライオニズムはますます高揚したと確信します。私に大役を与えていただいた事を感謝しております。どうもありがとうございました。 |
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